信州麻まつり&信州麻サミット
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●開田の麻

開田村では、長野県選択無形民俗文化財「開田村の麻織の技法」のある地域である。残念がら、その技術は、現在のところ廃れてしまったが、この技法を信州麻復活のプロジェクトとして、実施していく予定である。


― 開田村の麻 と 生 活 − 

1、 機織りの生活

@ 麻を織れないものは嫁にせぬ

昔はすべてが自給自足の生活であったから衣料も当然、自分たちの手によってまかなわれたものである。その衣料が開田村では、もっぱら麻によってまかなわれ、どこの家庭でも播種から麻布にするまで、すべてを自分たちの手でやったものである。木綿を着るにも古着と交換するために麻を織らねばならなかった。
そして、その麻に関する仕事の一切はすべて女衆の仕事であった。「麻を織れないものは嫁にせぬ」などといわれたほどで、衣料の自給はすべて女の責任とされていたのである。
年に六反位はどこの家でも普通で、家族の多い家では十二反位織らなければ間に合わなかった。
朝草や干し草を刈って馬を飼い、農業を営み、子供を育て、そんな忙しい仕事の合間にやることだからなお更大変なことである。

機織はたおり道具は嫁入り仕度の大切なものとされ、年頃の娘がいる家では、どこでも機織り道具の心配をしたもので、娘仲間でもこの道具がこないと格好がつかなかったという。
道具の新調もさることながら、麻績うみから麻布ののにするまでの技術を身につけさせることがこれまた大変なことであった。
どこでも子供の頃からまず績むことを教えた。ベニガラを塗った赤い小さな子供用のオケを見るにつけ、親の気持も理解できるというものである。
「かぞえの七ッのとき男親に績み方を教えられ、学校を上がるまで績むことばっかだった
んだものは、みんなおばあさんのノキ(緯糸)になった。
それから、小学校に入ると織ることを教えてもらい、18歳からはひとりで全部できた。」
また、
「ヘルときへバシ(綜箸)を使ってへタが、背が低く届かなくて苦労した。」
「早く撚り始めるとダメダと撚り方を教えてもらったが、撚りがうまくかからないままツムに巻きついてしまい失敗してしまった」
「ウミソメ(績み始める)なダチカン。ヨリソメ(撚

り始め)なダチカンといって、コスカレ、コスカレしてやった。」(ダメダ・ダメダと怒られながら覚えていった)
「地バタで織ったときナ、『子供はヒカレル』シテ(といって)、尻ヘウスの石をしばりつけてもらって織った。」 −地バタは自分の腰に布巻きをしばりつけて坐って織るので、自分の腰でピンと張っていないと糸がゆるんで織りにくくなる。−
このようにして、大かた17・8歳になると一人前になったようである。

A 麻を分ける

女親は毎年冬になると、績むようにした麻を家族の女に分け与えた。

嫁は播種から麻にするまで、みんなひとりでやって、績むばかりにした麻を女親に渡す。親はそれを家族の女みんなに分けてくれる。嫁も分けてもらう。いくら自分の作った麻でも分けてもらうまでは、勝手に績むわけにはいかなかった。嫁には二機ふたはたくらいくれたようであるが、子供の数によっても多少のちがいはあったようで、嫁はそれで亭主と子供、自分の衣料をまかなった。

B 嫁の忙しさ

嫁の忙しいことは言語に絶するものがある。今日の生活は「夢のようだ」という。
お昼をしょって田植えをした。笹刈りに行って、ヒエモチを食べながら歩いた。
朝は暗いうちに起きてすぐ、囲炉裏いろりの火をたいて、鍋をかける。つぎは馬の湯をわかすために釜の火をたく。湯がわくまで一段落するとすぐに績

み始めた。子供を便所へ連れていって用をたしている間にも績んだ。
夜は夜で子供を寝かせてから、11時でも12時でも績んだ。ランプはもったいないで囲炉裏の明りで績んだ。

またよその家へ用事にいくときには、テガラ(績めるように柔かくした麻)を持っていって話をしながら績んだ。その家で気をきかせてザル(オンケの代用になるもの)でも貸してくれればいいが、そうでないときは、テガラを巻いてきた。
織り落す頃には、もう外の仕事が待っている。麻布ののりを抜くことや雪にさらすことは外の仕事の合間にやった。
のり抜きは、たいがい外の仕事を終えて、夜、暗がりでやった。朝いってみると、あたり一面にのりが飛んで真白になっていた。

C 布の品質

小さいときからみがき上げた技術は、麻布をみれば、だれの手のものだかわかったというほどで、いちばん熟練するのは、30歳前後の嫁で、その人たちの織ったものは、木曽福島から来る商人もよいものと認めており、交換の率もよかったものである。年をとってくると目が悪くなり、細く績めないので、どうしても目の粗い麻布になってしまった。
「オッカアは、マイ(以前)はいいもの織ったが、オシタソナア(腕がにぶったな)。」
「年ダデ、ダチカンヨ(年をとったのでダメだ)。」

2、 麻とその利用

@ 麻布のの


織り落した麻布をのの..という。ひと機はたは二反である。一反の丈は鯨尺で二丈八尺から、三丈である。目をつめて織ると丈が縮む。幅は鯨尺で一尺が標準というものだが、九寸五分から九寸七、八分が織りいい。
オサ(筬)は糸を細く績めれば、四十八手(六目が一手)位にするときれいな仕上がりになる。洋服などにするものは、五十五手位でないとダメ。

年をとってくると績んだ糸が太いために三十八手位の筬でないと使えない。粗いものは三十二手位からもっと少ないものもある。
細い糸になるほど織り上げもきれいだし軽い。太くなると重い。普通一反は四百匁というものだ。

筬目へは普通モロといって経糸のあたまの輪になったものをそのまま通すが(二本通ることになる)、粗い目のものは輪を切ってヒトツイレ(一本だけ通す)とする。ヒトツイレの布は敷布しきの、豆腐袋などにする。
高機たかはたで織ったものは、ノキマクラ(緯糸が高くとび出ること)ができやすいが、地機じばたごで織ったものはきれいに仕上がる。
また、大正の始め頃、養蚕がさかんになりマユからとった糸を経糸につかったものや、片モメンといって緯糸に木綿をつかったものなどを織ったこともある。片モメンは布が柔らかくてよかった。

A麻の利用

(1)麻布ののとして

織った麻布ののは、大部分は反物や木綿の古着などと交換したが、自家用としてもコイノ(はんてん)やハカマ(福島へんでは行きバカマといっているが、いわゆるモンペ式のもの)などにして着たほか、畳のへりや、コンブクロ(穀袋)、豆腐袋、敷布しきの、ゼンブクロ(弁当袋)などとして利用した。

コイノ(コギノ)とハカマ いずれも夏の着物であるが、コイノは木曽福島のコウヤ(紺屋)で染めてもらったが、戦争中は染粉を買って自分で染めた。男物も女物も袖は
短かく、丈は膝まである。昔はそれだけで歩いた。軽いし、涼しくて着ていてとても楽だった。

地機じばたごで織ったものは布目がきれいだったので、村の役(出役)にいくときは、地機のコイノを着せてやったものである。
「みこしまくり」で有名な木曽福島の水無神社の祭りで、枠持ち(みこしかつぎ)が着るのもこの麻布でつくったものである。

ハカマは山着として、朝草や乾し草を刈るときにはいた。小枝やバラにひっかかってもとれやすいし、膝が自由になってよかったが、露にぬれると重くなり、股がすれて血が出ることもあった。折り目がつくとすれて弱かった。

コンブクロ(穀袋)五斗袋などともいう。モミなどの穀物を入れる袋で、三十七手位の粗い筬で織ったもので、布をはすかい....(斜交)に合せて細長く縫ったもので、口が大きくなり物が入れやすく、また斜布になるので重みがかかってもほつれることもなく丈夫である。

ゴト袋(五斗袋)は、丈が三尺五寸、幅二尺位のもので、口元をタネテ(結んで)しょった。細長いので扱いがらくだったし、袋にモミがつかなくてよかった。
五斗袋のほか、二斗入り、二斗五升入り、三斗入りなどがあった。麻布一反で五斗入りと三斗入りの袋を作って余りがでた。
ズミの木の皮で黒っぽい色に染めて使っていた人もおった。

豆腐袋や赤飯などふかすときセイロ(蒸籠)へ敷くシキノ(敷布)はヒトツイレで織った目の粗い布を使う。豆腐袋は穀袋と同じようにはすかいに縫う。一反で三つもできる。
シキノは切って二幅を縫い合せて四角にする。

弁当袋は、ゼンブクロといった。合せメンパとサイメソパ(おかず入れ)を入れてしょえるようにした。

(2)麻と麻ガラ

二尺くらいの短い麻はニソ(煮麻)といって釜で煮て、そのまま剥いで、績むことのできないおぞい...(悪い)麻と一緒になわになったり、下駄やぞうりの鼻緒にした。

またそれより少し長いものは、シタオモソといって湯をかけてひと晩ねかして(ムシロをかけてナス)川原で1日か2日乾す。そのままおいて、普通の麻と一緒にナシ、績めるものは績んだ。績めんものは秋の山の講のときお寺へあげたり、山伏が来たときにくれてやったりした。

麻ガラは、クダにするほかは川へもっていって2晩くらい水につけてアクを抜き、川原へ立てかけて水を切り、ひろげて乾し上げ、たきつけにした。太い麻ガラはとっておき、焼いて炭にしてそれを粉にしてホクチ(火口・燧ひうちを打ちつけて火をうつし取るもの)にした。

3、木綿や古着との交換

衣料の生活はすべて麻布によってまかなわれたといってよい。麻布だけを着るわけにはいかないので反物や木綿の古着などと交換して家中の者が着る衣料とした。また多少は売払い現金にもしたようである。

明治6年の「諸願御届綴」をみると西野村の太布千六拾六反のうち五百反は村内入用、五百六拾六反は売払い。とあり、当時西野村には六軒の商人があり、売払いの五百六拾六反はこれらの商人も古着と交換したりしたもので、木曽福島から商人が入って来る前からこれら村内の商人を通じて村外へ出されたものと思われる。

明治11年に木曽福島の和忠が入り、続いて、コクサ、カミエなどの商人が木綿の反物やふとん、古着など持って来て麻布と交換した。
毎年春になって麻布が織り上がる頃になると、福島から商人がやって来て、村(部落)
うちの二、三軒を借り、そこへもって来たものをひろげる。村の衆はそこへ麻布を持っていって交換した。まだ織り上がっていない人は、自分が織れる見込みの数量に見合う衣料を先に受けとることもあった。

商人は、約60日滞在してその間にほとんど交換を済ませた。何年も続けて来ていると村のようすも、家のようすもよくわかったもので、子供の多いところへは、子供用を多く、年寄りの多い所へは、年寄り物を多くして、その部落の需要を見計らって荷をつくったものだが、だいたいそれでおさまった(うまく交換できた)ものである。

大正7、8年頃の話であるが、麻布一反について古着で二枚か三枚だった。新しい木綿縞は一反とズリガエだった。
互に値段はつけないで、あくまで物と物との交換で、金で売るようなことはなかった。
荷ができると村内の駄馬だばや持ち子によってマチ(木曽福島町)へ運ばれたもので、駄馬の荷は三十二反をひとしばりにして、それを一梱ひとこうりといい、これを振り分けにして馬の背につけて運んだもので、駄賃は1円60銭から2円だった。

持ち子は一梱を背負ったものでこれも結構いい仕事になったという。
多い年は七百反から八百反も出ていったということである。
こうした商人も戦争が始まる頃からこなくなり、木綿の入手も困難になった。

4、麻布の検査と織物税

昔は、水車税や狩猟税、ばくろう税などがあって、その中に織物税もあったようで昭和7、8年頃まで麻布にも税がかけられた。

前述の古着との交換にも税を納めた検印がなければ正式には交換ができなかった。
毎年五月頃、税務署から役人が二人くらい来て泊り込みで検査をした。検査済のものは布の端に楕円形の判を押した。
検査の日は、みんな役場(西野は寺)へ麻布を背負っていって判を押してもらった。
税金は普通物で一反に8銭くらい、目の粗いものは五銭くらいだった。当時の麻布一反は1円7、80銭だった。

この税の検査によって、自分の織った麻布の値が決まったようなもので「オレは1円50銭にしかならなんだ」とか「オレは2円だった」などと話しながらかえって来たという。

5、軍需品としての供出

昭和14年頃になると軍需品として供出を強要され、各部落へ割り当てがきて、作らされた。
軍需品は規格がめんどうだった。それで栃木県から大塚という先生が来て、麻あさコナシ(麻切りから仕上げまで)を教えてくれた。

役場のそばで講習があって、みんな乾し上げた麻を持って集まった。講習は1週間も
続いて、ナスことからオカキをして乾し上げるまでやった。
ナシ方は、小糠ぬかを厚く敷きながら次々と積み上げて一度にナスのではしごを掛けて登って積み上げた。

麻の長さは七尺で、六筋を一手ひとてにして棹にかけてまっ白になるまで乾し、乾したものは六手を一束にしばって、更に六束くらいをひとしばりにして出した。
出したものは検査をして、等級をつけた。特等、一等もあったが、二等になればいい方で一等はめったになかった。大方は三等以下で等外もあった。
代金は布にして七、八反分もあったものが十四円だった。
検査を受けると手数料として一銭か、一銭五厘とられた。
この頃から、作った麻は全部供出で自家用はなかった。

6、免許証について

戦後、麻は大麻取締法によって作付けについては県知事の許可が必要になった。
終戦直後、そんな事を知らずにいたので、だまって作ったら、芽の出た麻をみた村の人に「麻は申請がめんどうだで、やめろ」といわれて、みんな抜いてしまったこともあった。
その翌年からは申請して作ったが、県庁や保健所の役人が何回も調べに来た。
いつかは麻を初めて見たという役人が来たので、二本くれてやったら、また保健所が来て、「麻種一粒でも、葉一枚でも人にくれてはいけない。」といった。
許可は一年毎に更新しなければいけない。昭和47年までは医者の診断書が必要だったけれど翌年からは継続者はそれが不要になった。
申請は役場を通して保健所へ出す。

引用文献 『木曽の麻衣』 (開田村教育委員会発行)


●開田郷土資料館 電話0264-42-3127 

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